西暦800年頃
修験者、山伏の地
龍穏寺のある越生は、古くからの霊場・秩父への通り道でもあり
奈良~平安時代にかけては、修験道や山岳仏教が隆興しました。
今なお『越生町・黒山三滝』『飯能市・高山不動』など
近隣にその名残があります。
(写真:越生町黒山『役小角像』)
西暦807年
古・龍穏寺の建立
そのような時代背景の中、当地の修験者や山伏達の手によって
龍穏寺の基礎となったお寺が建立された、と伝記は伝えます。
時期は不明ながら、当時の山号寺号は『瑞雲山・長昌寺』
と号したそうです。
西暦1430年
将軍による復興
室町時代になると、政治の中心は再び京都へと戻ります。
この頃にはお寺も廃れてしまい、細々と続いているような
状態になってしまっていました。
そこで1430年、幕府六代将軍『足利義教(よしのり)』は
鎌倉幕府以来の敵味方の戦死者を供養するためもあり
寺領を寄進し、お寺の復興を命じます。
(写真:『足利義教』)
復興には、後の川越城・初代城主『上杉持朝(もちとも)』が
あたり、住職には将軍家とかねてより親交のあった
曹洞宗の大和尚『無極慧徹』を迎え入れ、開山第一世とした
と、伝わります。
こぼれ話
大和尚
『無極慧徹』は伝説的な大和尚で、その姓は藤原氏であり
父は幕府二代将軍『足利義詮(よしあきら)』に仕えた
家臣だったと伝わります。
また、当寺第二世『月江正文』和尚も、姓は藤原氏であり
両和尚は、当寺のみならず、全国の様々なお寺を開山し
大和尚として崇敬を集めたと言われます。
1400年前後
関東・戦国時代
こうして復興を果たしたお寺でしたが、その頃の関東は
非常に不安定な情勢だったようです。
戦国武将として有名な『足利家』『武田家』『北条家』
『佐竹家』『今川家』『結城家』『里見家』『長尾家』
などの諸勢力が入り乱れ、混乱を極めていました。
こうして関東は、信長や秀吉などが活躍する西日本より
一足早く、戦国時代に突入して行くのです。
1400年前後
戦火の中のお寺
このように、関東全域が戦に明け暮れていた時代の中
お寺もその波からは免れる事が出来ませんでした。
復興から間もなく、第二世『月江正文』和尚の時に
戦火にのまれ、再び荒廃してしまったのです。
月江和尚はお寺を再建しようと苦心しますが、戦乱の中
その願いは中々叶いませんでした。
西暦1457年
太田道灌・道真
やがて関西から日本全土が戦国時代に入ると、関東には
『江戸城』『川越城』などの名城が次々と建設されます。
その名城を築いたのが、扇谷上杉家の筆頭家宰である
『太田道真(父)』『太田道灌(子)』父子でした。
(写真:『皇居・道灌濠』『川越城・本丸御殿』)
道真は「東国無双の案者(関東一の知恵者)」として
道灌は「築城の名手」として、広く知られた名将で
共に『泰叟妙康』和尚に帰依していました。
(※詳細は
『太田道灌公』にて)
西暦1472年
中興の祖
道真・道灌父子は、打ち続く戦国の世で、死してなお
戦場に横たわる屍を見て悲しみ『彼らの魂を弔いたい』
と考えました。
(写真:月岡芳年『太田道灌』)
時を同じくして師の泰叟和尚も、自分の師であった
『無極・月江』両和尚が興し、戦火にのまれて荒廃した
お寺を復興したいと考えていました。
そこで三者は「道真・道灌の主君、上杉持朝が建て」
「師が興し」「六代将軍・義教の三十三回忌が翌年」
という縁があるお寺を、再建する事となったのです。
(写真:川越・曹洞宗長福寺『雲崗禅師・道灌公』)
築城の名手、道真・道灌の尽力で再建されたお寺は
伽藍を備え、とても立派なお寺になったと伝わります。
また、泰叟和尚は第三世住職となり、法統を継ぎました。
そしてこれをもって、泰叟和尚を『中興開山』
道真・道灌父子を『中興開基』とし、今日まで
その遺徳が伝わる事となったのです。
1504年
龍神伝説、長昌山・龍穏寺
その後、第五世『雲崗舜徳』和尚の頃、龍神伝説が
生まれます。
雲崗和尚は龍退治の後、平地となった土地を開墾し
その地にお寺を移しました。そしてお寺の山号寺号を
『長昌山・龍穏寺』とし、末永い発展を祈ったのです。
雲崗和尚の祈り通り、この時代から先、龍穏寺は
ますます発展して行く事となりました。
西暦1612年
関三刹(関東三大寺)へ
幕府が変わり江戸時代になると、秀吉より拝領していた
百石に加え、幕府より龍ヶ谷村全域を与えられました。
これより幕末まで龍ヶ谷地域は龍穏寺領となります。
そして同時に、徳川家康より『天下大僧禄』に任ぜられ
下野・大中寺、下総・總寧寺と共に『関三刹・関三箇寺』
すなわち関東三大寺と呼ばれるようになったのです。
(写真:新編武蔵風土記稿『龍穏寺』より)
関三刹は全国を三分し、1万5千寺、2万人の僧侶を
統制する役職でした。その中でも龍穏寺は
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武蔵・上野・紀伊・備後・美作・伊予・土佐・阿波
讃岐・安芸・周防・長門・信濃・越後・佐渡・豊前
豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・淡路・備中
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の23ヵ国、4000寺あまりの曹洞宗寺院を任され
『関三刹の筆頭』と呼ばれました。
ありがたい事に、現在でもこの時のご縁により
各地のお寺との親交が続いております。
(末寺と住職)
西暦1636年
格式10万石
この年、前年に設置された寺社奉行の諮問席として
10万石の格式で幕府に迎えられます。
譜代の名門、桑名藩(11万石)、大垣藩(10万石)や
真田家の松代藩(10万石)、伊達家の宇和島藩(10万石)
などと並ぶ、高い格式でした。
この格式より、たとえ大名でも参道の『下馬門』にて
馬を降り、参詣しなければならなかった、と伝わります。
西暦1660年
大本山・永平寺の貫主
また、二十二世『鉄心御洲』和尚が大本山・永平寺の
貫主(住職)に就任して以降、永平寺の貫主は、幕府が
関三刹の住職より選び、任命する制度が確立しました。
これより長きにわたり、貫主は関三刹の住職が歴任し
当寺からも13人の住職が永平寺に昇る事となりました。
(写真:『大本山・永平寺』)
西暦1678年
麻布・龍穏寺
龍穏寺の住職は江戸での職務のため、末寺である
『青松寺』(港区)を出張所として、越生-江戸間を
行き来ました。しかし、次第に関三刹の職務が
多忙を極めるようになります。
そこで1678年、麻布・御薬園(現南麻布・薬園坂)に
宿寺(別邸)を建て、これ以降は江戸に在住し、職務を
行うようになりました。
(写真:『麻布寺社書上』1829年)
この江戸の土地、七百七十六坪は幕府より与えられ
移転・幕末を経て、現在のイラン大使館となりました。
(写真:南麻布の移り変わり)
こぼれ話
江戸三ヶ寺
関三刹(龍穏寺・大中寺・總寧寺)は、それぞれが
江戸に(青松寺・泉岳寺・總泉寺)の末寺を持ち
関三刹の補佐役として江戸の寺院を統制しました。
(写真:『江戸三ヶ寺』)
現在でも『江戸三ヶ寺』と言えば、この三寺の事を
言います。やがてこの中の泉岳寺・青松寺の学寮
(僧侶などが勉強した寮)が統合し、『曹洞宗大学』
すなわち、現在の『駒澤大学』となりました。
こぼれ話
御薬園
また、別邸のあった『御薬園』は、幕府の薬草園で
後に移転し『小石川御薬園』となります。
そして将軍吉宗・大岡忠相の時代、『大岡越前』や
『赤ひげ』、『暴れん坊将軍』などでお馴染みの
『小石川養生所』が作られ、人々を救いました。
サツマイモで有名な青木昆陽も、ここで試作を行い
現在は『小石川植物園』として、東京大学の管理の元
一般公開されています。
(写真:『小石川植物園の日本庭園』)
参考資料:
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≪国立国会図書館蔵≫
『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』『大日本地誌大系』『文政町方書上』『江戸鹿子』『江戸叢書』『江戸名勝志』『続江戸砂子』『御江戸大絵図』『江戸切絵図』『増補江戸大絵図』『分間江戸大繪圖』
≪越生町史研究会編/越生町≫
『越生の歴史Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・<古文書・記録>』『越生町寺院明細帳』
≪龍穏寺所蔵≫
『長昌山龍穏寺境地因縁記』『龍穏寺縁起』『龍穏寺世代』
≪その他≫
『永平寺史』『総持寺史』『日本佛家人名辭書』『天草回廊記上』『梅花無尽蔵注釈1』『榎本弥左衛門覚書』
写真:
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『大本山・永平寺』Hiroaki Kikuchi,
『小石川植物園』京浜にけ
『江戸三ヶ寺』Reggaeman,
Dondekkon,
Kamemaru2000
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棚澤幸夫氏
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