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はじめに
当寺とご縁の深い太田道灌・道真公の生い立ち、逸話などをご紹介いたします。

ご名称につきましては、本来『道灌』『道真』はご戒名でございますが
一般的なご名称として、以下ではこちらでお呼びさせて頂きます。


生い立ち
太田道灌(資長/すけなが)は1432年、扇谷上杉家の重臣
太田道真(資清/すけきよ)の子として生まれます。
扇谷上杉家
父・道真の砦が龍穏寺領内にあった事はほぼ確実で
(現:山枝庵跡)、道灌もここで生誕した、との説が
あります。ただし、現在の神奈川で生まれたとの説も
有力であり、古い時代の事ゆえいまだ定説は無いようです。

越生町は扇谷上杉家の所領で、戦の最前線でも
あったため、重臣の太田家に任されていたようです。


逸話

障子と屏風


道灌は子供の頃より聡明で、周囲を驚かせていました。
ある時、父・道真はあまりに聡明な道灌を心配し
『知恵があり過ぎる者は偽りが多く、偽りは災いを招く。
 例えば障子は、直立してこそ用を成し、曲がっていては
 役に立たないであろう。』

と戒めると、道灌は屏風を指さし 屏風
『屏風は真っ直ぐには立たず、曲がっていてこそ役立ちます。』

とやり返したそうです。これを聞き、父・道真は
呆れたとも、感心したとも伝わりますが、道灌の
子供の頃からの聡明さを語る逸話です。



驕者不久


またその後、父・道真は、聡明な道灌が驕り高ぶる事を心配し 驕者不久
『驕者不久』(驕れる者、久しからずや)

と書した四字を床の間にかけ道灌に見せると、道灌はその書に
二文字を書き入れ
『不驕者又不久』(驕らざる者も、久しからずや)

と、正反対の意味にしてしまったそうです。これには父・道真も怒り
道灌を叩こうとしますが、道灌は一目散に逃げてしまったそうです。



父・道真


そんな父・道真は、道灌の偉業に隠れがちではありますが
上杉家の家宰(筆頭重臣)として、大いに活躍しております。
河越千句
当時の家宰は、領主に代わって領地の運営を任されたり
その権限は領主とほぼ変わらない場合もあったようです。

道真は文武に優れ、殊に歌道は、後に有名になる道灌より
その実力は上であった、と伝わります。居城にしていた
河越城(川越城)で連歌会を行い、この時の歌の数々は
『河越千句』として現在でも高い評価を得ています。



江戸城・川越城


1456年頃、道真・道灌父子は江戸城・川越城を築きます。 河越千句
その後、道灌は江戸城の初代城主になり、道真は川越城に
居城しました。

(写真:道灌、含雪亭(江戸城内・推定)より富士を見る)



現在でも東京には『道灌濠』『道灌山』などの名が残り
道灌の建てたお寺や神社が数多くあります。



山吹伝説


道灌の伝説の中で、最も広く知られたものがこちらです。
 ある時、道灌は父・道真の住む越生を訪れました。
 しかしそこで突然の雨にあい、蓑を借りようと近くの
 農家に駆け込みます。農家の娘に蓑を貸してくれるよう
 頼みますが、娘はただ恥ずかしそうにうつむいたまま
 一輪の『山吹の花』を差し出すだけでした。
山吹伝説1
 道灌は訳も分からず、腹立たしく思い、その場を去ります。
 後日、この話を家臣にすると、家臣は

 それはこういう事でしょう。すなわち『後拾遺和歌集』に
 『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき』
 という歌がございます。娘は『蓑一つない』貧乏を恥じて
 それを口にも出せず、ただ山吹の花を差し出したのでしょう。
山吹伝説2
 と道灌に教えました。これに感嘆し、また恥じ入った道灌は
 それまでの武勇に加え、歌道などを広く学び、やがて文武の
 両道に秀でた名将として知られるようになりました。

この伝説の比定地には諸説あり、越生も父・道真の館が 山吹伝説3
実際にあった事から、有力な候補地の一つです。
この他にも、鷹狩に出かけた説、現在の新宿だった説
神田だった説など、数多くの説があります。

また、この伝説の後、道灌は次のような歌を詠み
『急がずば 濡れざらましを 旅人の 後より晴るる 野路の村雨』

この歌と伝説は、江戸っ子の琴線に大いに触れたようで
数多くの絵画や川柳の題材として親しまれました。

(写真:『太田道灌初歌道志図』他)



『どうかんがえても山吹初手解せず』
『山吹の花だがなぜと太田言い』
『実のならぬ花で実のある返事なり』
『野路の村雨山吹のあとにはれ』



足軽戦法


道灌の武勇を支えたのが、後に『足軽戦法』と呼ばれる戦略であった
と言われます。当時の関東では、一騎打ちをするのが戦の習わしと
されていましたが、道灌は足軽を多用した戦法を行ったと言われます。 足軽戦法

これは道灌の発案であったとも、京にて修得したとも言われますが
いずれにせよこの戦法の先駆者であったのは間違いないようです。

道灌の戦歴は凄まじく、危機に追い込まれた上杉家にあって約30年
30戦の戦いを勝ち抜き、ほぼ独力で上杉家を救ったと言われます。



暗殺


しかし、この事がついに、道灌に最大の不幸を招きました。

道灌の名声が高まるにつれ、主君の上杉定正は不安を覚えます。
下剋上の時代において、有能すぎる家臣は脅威であったとも
道灌が主君定正を軽んじたとも言われますが、ついに1486年
定正によって道灌は暗殺されてしまいます。

死に際に道灌は『当方滅亡』(私が死ねば、扇谷も滅びる)と
叫んだと言われますが、予言の通り、このわずか60年程後に
扇谷上杉家は滅亡する事となりました。



道灌の最期


暗殺の時、道灌が歌道に通じてる事を知っていた暗殺者は
『かかる時 さこそ命の 惜しからめ』
  いざ死ぬとなると、いくら武勇で知られた
  あなたでも、さすがに命は惜しいでしょう。

と問うたと言います。それを受けて道灌は 道灌の最期
『かねて亡き身と 思い知らずば』
  常に死を覚悟していない者ならば、そうであろうよ。

と下の句を詠んだと言われます。

この潔い死に様は『さすが道灌』と人々を感嘆させ
後世まで語り継がれる事となります。後に新渡戸稲造が
その著書「武士道」の中にて、武士の最期の姿として
紹介し、広く知られる事となりました。



道真の最期


こうして息子・道灌に先立たれた道真も、その翌々年
越生・自得軒にて息子の後を追うように亡くなられました。 両公墓
太田資清 戒名:自得院殿実慶道真庵主
太田資長 戒名:香月院殿春苑静勝道灌大居士

両名将の魂は今、武蔵野の風に吹かれながら
静かに眠られております。


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